Y版山姥日記

旧山姥日記

6月9日から12日の富士山・女衆

6月9日午前5時20分頃
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6月10日
裏磐梯
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山のオバサン一泊弾丸旅行中
 
6月11日午前5時34分頃
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6月12日
午後3時26分頃
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午後6時59分頃
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9日10日と
山のオバちゃん弾丸一泊旅行に参加。
訃報が次々と入るが
もう会津に入ってしまっていたので
旅行は続行されることになった。
が、
なんだか盛り上がらない。
 
当然ね。
 
 
帰宅後、葬儀のお手伝いに行く。
 
山姥村に来たときから
ここの女衆の仕事を教えてくれたおばさんの一人が亡くなっていた。
 
女衆の何たるかを知り抜き
余計な事を口にせず、黙々と生きたオバサンだった。
 
ご冥福を祈るとともに
お通夜にお手伝いできなかったことを棺に向かって詫びた。
 
 
今では葬祭場での通夜・葬儀・膳上げだが
かつては夫々の家で出したものだ。
 
 
 
亡くなるとすぐ「悔やみ」に行き
しばらく待っていると葬儀の相談が始まる。
組合の大仕事で、施主も喪主も畏まって聞いているだけだ。
 
何百年も続いてきたことなのだろう。
 
女衆は葬儀の日のお昼ご飯まで
粛々と作る。
 
その家の人たちの分と組合全員の分なので
40人から50人分くらいだったと記憶している。
 
食事の仕度とともに
餅作りに入る。
 
縁切り餅も、祭壇の餅も全部搗く。
葬儀の大きさにも寄るが、相当の量の餅を
熱いうちに丸めていく。
 
それから・・・
 
 
と、書き続けるとスゴイコトになるのでやめよう。
 
 
 
沢山のいろんなことを知っている年寄りが少なくなってしまう。
今のうちに聞いておくべきことはたくさんあるが
彼女たちの精神は子供に帰ってしまっている。
 
これも仕方のないことだ。
 
 
 
 
 
こうやって
時代は移り変わっていくんだね。
 
 
 
時代が変わって
昔の風習が薄れてしまうのは惜しいけれど
新しい時代の新しい風習も出来ていくのだから
 
またこれも面白い人生ではある。
 
 
と、思う。