Y版山姥日記

旧山姥日記

3月14日15日の富士山・切ないな・・・

3月14日午後5時10分頃
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3月15日午前10時12分頃
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午前中の事
夫が外から大声で「富士山少し見えてきたぞ」
と、教えてくれた。
 
急いで二階に駆け上っては見たものの
富士山は雲に閉ざされる寸前だった。
 
今日もウグイスが鳴いていた。
 
 
 
 
今朝
顔面書籍(ブロ友おんちんさんの言葉)で購読している
古典芸能の評論家が書いていた。
渋谷の東横線のホームは明日から東横線ではなくなるって。
 
 
 
 
 
 
小さい頃から本当に小さい頃から
繁華街と言えば渋谷だった、ワタシにとって。
東京の片隅のワタシの住んでいた商店街の子は
都会に行くというと渋谷しかなかった。
隣の酒屋の前のバス停から30分足らずで渋谷に着いた。
目の前でバスが走り去っても5分もすれば次のバスが来た。
50年くらい前の事だ。
 
バスに乗って東横の前にバスが到着すると嬉しかった。
 
殆ど妣に連れられての買い物だったが
東横劇場に文楽を見に行ったりもした。
「夕鶴」を見たのも東横劇場だったと思う。
「振り向くなペドロ」も見た。
 
この「振り向くなペドロ」を見て
ワタシは後々演劇少女になった・・・
遠い昔の事。
 
「振り向くなペドロ」はググって見たら1961年の上演だった。
 
 
 
そうだ。
アレは21才になる年の元旦だった。
振袖で改札を抜けた途端に発車ベルが鳴り響き
ワタシは振袖の袖と裾を翻し走った。
 
最後部の車掌室の窓から車掌さんが
「そんな格好で走っちゃって・・・。次のにゆっくり乗りなさい」
と、言われたこともあったし
 
23歳のころの事
東横線の改札を出て井の頭線に乗ろうと歩いていると
集団結婚で有名だったカルト教団に勧誘され
 
そうだわ、あの時も着物を着ていた。
一月だったか二月だったか、袷にコート着てカシミアのショールしてたっけ。
 
寒いのに
カルト教団の人はワタシを放してはくれず
ナントカ逃げようとしていたところに紳士が寄って来て
「僕が話を聞こう。貴女は帰りなさい」
と、助けてくださった。
その紳士の名前も聞かなかったし顔も見ずに
急いで走ったことも覚えている。
その晩から高熱を出したことさえ記憶に残っている。
知恵熱だったのかな。
 
 
 
 
 
 
 50年前の話に戻ろう。
バスに乗って渋谷について用事を済ませると
バスターミナルの前のバラックの飲食店でカレーを食べて帰る。
母とワタシの二人きりのお楽しみだった。
 
バラックがなくなり、ガード下の傷痍軍人がいなくなり
渋谷はだんだん綺麗な街に変身していった。
 
サウンド オブ ミュージック」を見たのも渋谷で
渋谷の映画館に行くときはよそ行きに着替えさせられた。
下北沢の映画館は普段着で行ってたのに。
 
 
プラネタリウムがいつ出来たのか定かではないが
プラネタリウムはワタシの一番のお気に入りだったし
ユーハイムのバームクーヘンは夢のような食べ物だった。
 
 
 
 
 
 
 
東京を離れて
35年以上の歳月が経っているから
ワタシの知っている東京はもう存在していないのね。
 
 
山姥村の変化と言えば
隣の草っ原の枯れ草がシルバーさんたちに二日かけて刈られたことと
春の気配に村人が少し綺麗な手ぬぐいを被っているとか
トンビが輪を描いてピーヒョロと鳴いているとか
さくらのつぼみがまぁるくなって来たこととか
風が優しい南風になったとか
他愛もないことばかり・・・
 
 
 
世の中から置き忘れられた村なんだね、きっと。
 
 
 
それでも、いいところだよ。