Y版山姥日記

旧山姥日記

5月25日の富士山・存在の不確かさ

5月25日午前10時22分頃
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晴れ渡った5月の空と
葉のささやきを呼寄せる風ほど
心地の良いものはないとワタシは思う。
植えられたばかりの稲はまだまだか細く
その風に吹かれてオロオロしているようにも見える。
 
柿の葉も風に揺られて
5月の陽光を一身に受け輝いている。
耕耘機の音はしない。
鴬の啼く声と風の通り抜ける音だけがある昼下がり。
アンニュイな午後。
 
と、洒落てみてもお里は知れているから
いつも通りの眠たいだけだ。
 
 
それは今朝のこと。
陽の輝きに高揚する心を抑えて二階に駆け上り
富士山を見上げると
 
そこに在るべき姿は
在るのか無いのか分からないとしか言えない。
しばらく呆然と宙に目を泳がせ
年のせいではないわよねと念じつつ
もう一度目を凝らしても
やはり
在るのか無いのか分からない。
 
どうせ人生なんかこんなものよ。
 
真実と思ったことが不実の極みだったり
頼れる本当と思ったものは頼ることすら出来ない嘘だった。
 
どうせ泡沫の人生よね。
 
愛と似たようなものよ。
 
誰も信じちゃいけないんだわ。
 
 
 
などと、物憂げに窓辺に座っても、ワタシには全く似合わないことは
ワタシ自身が一番よく知っているけど、たまには、恋愛小説を読もうかしら。
悲恋のヒロインに我が身を投影しても罰は当たらないだろう。
 
 
 
 
 
 
今朝ミカンの花が咲いた。
あの、元はサンキストのグレープフルーツだった夏みかんの花だ。
肉厚の花びらの白さは高潔で好もしい。
 
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