Y版山姥日記

旧山姥日記

3月9日の富士山・忘れちゃいけない日

3月9日午前7時43分頃
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おっとっと・・・

忘れるところだった。




東日本大震災の事ではない。








母は
そして母の二人の妹と

ワタシが小さい頃
よく集まって、亭主の事や姑のことなど
いろいろとケラケラ笑いながら愚痴っていた。

それほど明るい人たちで
幾つになっても女学生気分の抜けない三姉妹。

本当はもうひとり姉がいて
兄と弟がいて

六人兄妹だったけれど

次女と三女と末っ子がいつも集まっていた。
時々兄が、思い出したように弟が

ワタシの育った家に集まって

ワタシの父は
その明るい人たちの話を黙ってニコニコと聞いていた。



毎年この日に書いているけれど

この兄弟たちの
微に入り細に入りの話は

ワタシの疑似体験になるほど聞かされた。



それにしても
悲惨な体験のはずなのに

母とすぐ下の叔母の話は明るく楽しいことではないか
と、錯覚するほど

彼女達は逞しかった。


真新しい下駄を母が
真新しい草履を叔母が履いて
真新しいお琴を西千葉の別宅に運ぶ話から

翌朝、西千葉から浅草へ帰る話へと進み

最後は
ワタシの祖父が温度の下がった金庫を開ける話で終わる。


その金庫から出てきたものは
年頃の娘に「大事なものを入れなさい」と言った
父親の腰を抜かせるほどのもので

(もっと大事な財産は郵便局に預けていたそうだ)


半襟・千代紙・レースにリボン

あの時のお父さんの顔忘れられないわよね

と、母が言って

東京大空襲の話は終わった。






けれども

西千葉の別宅から見えた空襲の時の火とか
永代橋(だったと思う)からの悲惨な光景も

本当に恐ろしく語っていた。





いろいろときな臭い昨今

戦争を生き抜いて
それぞれの人生を生き抜いた父母の世代の話は

忘れてはならない。


あの時代の人たちのお陰で

ワタシたちは平和を享受しているのだもの。




東京だけでなく
戦火に巻き込まれたニッポンの町の
それぞれに


語り継がれているのだろう


と、思う。