紫陽花など
ようやく晴れて 富士山は幽かに見える程度だけれど
窓辺から見る柿の樹は夏の太陽の光をキラキラと反射させ 気持ちがよい。
窓辺から見る柿の樹は夏の太陽の光をキラキラと反射させ 気持ちがよい。
紫陽花の花
紫陽花の花だと思っていたものがガクだと知ったのは
まだ小さいころだったように記憶している。
その頃 東京の片隅の長屋暮らしをしていたのだが
その長屋の住人たちは
今思うと 猫の額ほどもない庭や路地を沢山の植物で飾っていた。
母も萩を植えたりノボタンを植えたりしていたが
板塀と砂利道のホンのわずかな間に植えていた。
斜め前の家にはシランが植えてあって 母はよく眺めていたのを思い出す。
前の家の長屋には狭い庭があって
オシロイバナや紫陽花があったと記憶している。
その紫陽花を見て母が紫陽花の花を教えてくれたように思うが
随分と昔のことなので 思い違いかもしれない。
昭和40年代前半のことだ。
まだ小さいころだったように記憶している。
その頃 東京の片隅の長屋暮らしをしていたのだが
その長屋の住人たちは
今思うと 猫の額ほどもない庭や路地を沢山の植物で飾っていた。
母も萩を植えたりノボタンを植えたりしていたが
板塀と砂利道のホンのわずかな間に植えていた。
斜め前の家にはシランが植えてあって 母はよく眺めていたのを思い出す。
前の家の長屋には狭い庭があって
オシロイバナや紫陽花があったと記憶している。
その紫陽花を見て母が紫陽花の花を教えてくれたように思うが
随分と昔のことなので 思い違いかもしれない。
昭和40年代前半のことだ。
下の駐車場に花壇と思しきものを昨年作ったのだけど
今は 茗荷と赤紫蘇とに覆われてしまっている。
その茗荷を押し分けてみたら あら・・・
昨年はちゃんとしたハーブや好みの花を植えてあって
生き残ったのはわずかだけれど
その生き残りの一人で 嬉しい。
今は 茗荷と赤紫蘇とに覆われてしまっている。
その茗荷を押し分けてみたら あら・・・
昨年はちゃんとしたハーブや好みの花を植えてあって
生き残ったのはわずかだけれど
その生き残りの一人で 嬉しい。
「小坊主弟切」の名はこの実からきているのかしらと思う。
花屋さんには実になったものが売られていて
あの美しい黄色の花は売られているところを見たことがない。
この実を見ると思わず笑ってしまうほど可愛らしい。
実の天辺に毛が3本生えているところなどQちゃんを思い出す。
花屋さんには実になったものが売られていて
あの美しい黄色の花は売られているところを見たことがない。
この実を見ると思わず笑ってしまうほど可愛らしい。
実の天辺に毛が3本生えているところなどQちゃんを思い出す。
まだ咲きはじめなので これからが楽しみだ。
最近 ピントを合わせるのに苦労する。
老眼鏡を作り変えなくてはならないかしら。
最近 ピントを合わせるのに苦労する。
老眼鏡を作り変えなくてはならないかしら。
裏山の入り口に咲くはじめている。
夏になったなぁと思わせてくれる花の一つだ。
この花の茎にはアブラムシがせっせと働いている。
夏になったなぁと思わせてくれる花の一つだ。
この花の茎にはアブラムシがせっせと働いている。
裏山への入り口
昨日までの霧と雨で元気いっぱいの苔たち
(山姥家の石垣と外の階段)
(山姥家の石垣と外の階段)
昨日、大好きなクズフジの蔓を太っ腹が見事に伐った。
ワタシには何の相談もなく 座敷童女2号が知らせてくれた。
オマケにだ!
このブログの最初の記事を飾ったノイバラも見事に伐った。
太い幹は残してあるからまた生えてくるよと
こともなげに言い切る我が伴侶の顔が滲んできた・・・
富士山を撮る時 クズフジの蔓はもういない。
秋になって 真っ赤な実のなることもないノイバラ。
ワタシには何の相談もなく 座敷童女2号が知らせてくれた。
オマケにだ!
このブログの最初の記事を飾ったノイバラも見事に伐った。
太い幹は残してあるからまた生えてくるよと
こともなげに言い切る我が伴侶の顔が滲んできた・・・
富士山を撮る時 クズフジの蔓はもういない。
秋になって 真っ赤な実のなることもないノイバラ。