Y版山姥日記

旧山姥日記

伝えておきたいと言われた事

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  私の育った家は、父方母方の親戚の集合場所でした。
  父も母も兄弟姉妹が多かったので
  いつも誰かが来ていたように思います。

  三月はお雛さまにかこつけて
  母の姉妹がよくやってきていました。
  そして、出るのは「3月10日の大空襲の話」です。

  昭和20年3月9日
  浅草に住んでいた母はすぐ下の妹と、西千葉にある別宅に出かけたそうです。
  東京にも大きな空襲があるかもしれないと
  私の祖父は、年若い娘たちに大事な物を疎開させるよう言ったのです。
  その前々から、祖父は郵便局に財産の殆どを預けて
  家にある大きな金庫には、娘たちの大事な物を入れさせました。

  母と叔母は 9日の朝、大きなお琴を抱え
  母は桐の下駄を、叔母は厚底のぞうりを履いて出掛けたそうです。
  結婚を間近に控えた母と叔母は 小旅行の気分だったに違いありません。
                  (二人とも鬼籍に入るまで女学生気分の抜けない人たちでした)

  10日未明、
  たたき起こされた母と叔母は、東京の空が夕焼けより綺麗だったと言っていました。
  その後、すぐに支度を整えて浅草に帰ったらしいのですが
  そこから 浅草の家まで帰る道でのことは、凄まじく 恐ろしい事柄でした。

  西千葉から歩いて浅草まで
  焼け出された人々、黒焦げの人々、川に浮いている人々
  お蔵を 温度が下がらないのに開けてしまい、中から火が出てしまっていたこと
  三月なのに、とても暑かったこと
  それは、母と叔母にどんなふうに映ったかということ。
  二人とも 微にいり細にいり、まだ小さい私たちに話して聞かせました。
  そして、私の母が言うのです。
  「私の下駄は焼けて摩り減り、○○ちゃん(叔母)のぞうりは溶けて熱がっていた」と。
  地面はそれほど熱かったのでしょう。

  浅草の家に帰り着いたとき
  祖父は、娘たちが無事に帰ったことを喜んだそうですが
  家は焼けて何もなく
  その家のあった場所には、大きな金庫だけが残っていたそうです。

  金庫が冷めてから扉を開けたとき
  祖父は絶望のどん底に突き落とされただろうと、母と叔母は言っていました。
  金庫の中から出てきたものは
  レース・刺繍入りの半襟・千代紙など、母と叔母の大切な物ばかり。
  金目の物など何も入っていなかったのです。

  「仕方ないわよネェ。」
  「それが私たちの命より大切な物だと思ってたんだからネェ」
  

       私が怖いからと この話の途中で抜け出そうとすると
       母のきついお叱りを受けました。
       「これはね、言い伝えなくてはいけない事なんだよ」


   母も叔母も、夢見る夢子さんを絵に描いたような人でしたし、
   庶民以外の何者でもありませんでした。
   けれど、母は
   あの惨状は見た者ではないと伝えられない
   あの惨状は伝えなければならないと、毎年話していたのです。

   東京大空襲の写真集と、この日の事を書き残したメモが遺品の中にありました。