Y版山姥日記

旧山姥日記

父に会う

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  一泊二日で兄の家にお泊り
  実家は、もうない。

  私の育った家は、今はビルになっているそうだ。
  中学高校と一緒だった友人が教えてくれた。
  「母がね、○ーコちゃんのおうちはビルになったよって言うの」

  ノーベル平和賞を受賞した総理大臣の家の近くの商店街
  3歳のお祝いの直前から22歳までそこで育った。
  
  信じられない事だけど
  自転車の練習は 出来たばかりの環七だった。
  自転車をそこまで引っ張って行って
  若林陸橋の下で 何度も何度も繰り返し練習した。

  兄と、あの頃のことを話し込んだ。
  座敷童子3号も来ていたので、驚くような話だったろうと思う。

  父は碁打ちで お向かいの薬屋さんの爺さんと碁仲間だった。
  二人とも 行儀の悪い煙草呑みで
  座布団も畳も焦げ痕だらけだったことも懐かしい。

  日本棋院から若い先生に来てもらって
  大層な接待をしていたことも思い出した。

  義姉が古いアルバムを出してくれた。
  私が自分の結婚式の写真を持っていないと言ったから。
  姪も 姪の娘達も大喜びで しばらく写真で楽しんだ。

  若い父と母、親戚の人たち。
  「みんな死んじゃったわね」と言うと
  「お義父さんは生きてるでしょ!」と義姉に突っ込まれた。

  「これ、○ーこおばちゃん??」と姪の娘が喜ぶ。
  「これ、じぃじ??」その下の娘も大喜びだ。
  
   写真の中の兄も私も、まだ少年少女だ。
   それが可笑しくて仕方のない様子の姪の娘達。

  セピア色の写真の父と母は、笑っている。
  淡路島に行ったときの写真では
  父はカメラ目線で、母は父の少し後ろでうつむいて微笑んでいる。

  この時 兄と私は留守番だったはずだが、記憶にない。
  御手伝いさんや店の若い衆がいたから、賑やかな留守番だったのだろう。

  母の兄の写真が アルバムの中央に一枚だけ貼ってある。
  父も、この伯父の事は大好きだったようだ。
  いつも我が家に来ては、文化の香りを残して帰っていった。

  結局、私の結婚の時の写真は見つからなかったが
  とても楽しかった。
  

  義姉に「お父さんに会いに来たんでしょ。少し話せば!」
  そう言われてしまったけれど
  ベットから起きられない父の細くなった腕にさわり
  掌を合わせ
  ベットの横にある仏壇にお線香を上げ
  
  たまにしか来れないけれど
  来た時の習慣になっている儀礼は 全部やったから
  いいのよ・・・


  一日目も二日目も、太っ腹の仕事の手伝いで横浜に。
  短い滞在だったけど
  父の顔を見たし、母へお線香もあげた。


  父の日とお誕生日のプレゼントは錦松梅にした。
  今年の夏の限定商品で、ガラスの器に入っていた。
  父にという名目だけど、実際は義姉へだ。


  小姑もつらいのよ。
                                           長々と失礼致しました。