Y版山姥日記

旧山姥日記

多摩川氾濫

 前の記事の「台風一過」猫目さんに頂いたコメントから
 あのころのことを思い出しました。

 私の実家はその頃 東京のある商店街でガソリンスタンドをやっておりました。
 兄が跡を継ぎ 狛江に支店を出そうとした時、狛江の住人の方から反対運動が起きました。

 住人の方と話し合いを持ち、ナントカ開店にこぎつけた記憶があります。
 それはまだ、私が中学生くらいの時の事。
 その頃はガソリンスタンドというと危険と思われていたのでしょう。

 反対運動の署名の最後に、母の父と同姓同名の名前を見付けた時
 父と母が泣き崩れた記憶も残っております。

 母の父 つまり私の母方の祖父は厳しい人でした。
 近衛隊に入っていたほどの人ですから、姿もよく頭脳明晰文武に優れていたらしいです。
                            (何故私はその血を受け継がなかったか 不思議です)
 祖父は私が小学4年生の時に他界していますから、まったくの別人である事は明らかです。

 私の両親とその祖父の間に何があったかは 今となっては分かりません。
 兄に聞けば教えてくれると思いますが、過ぎたことだし
 皆私の懐かしい人に代わりはありませんから、知らなくてもよいと思っています。

 けれども、
 署名の最後の名前を見た母が
 「まだ仇なすのか」とつぶやいた事と 硬く握られた父の拳は何を意味するか
 幼心にも理解していたように記憶しています。

 狛江のガソリンスタンドは、その後営業不振で閉めてしまいました。
 1970年くらいの事と思います。

 多摩川の氾濫は1974年の事だったらしいです。
 ウィキペディアで調べました。
           こちら→「岸辺のアルバム」


 「You Tnbe]でもこんなものを探しました。
                     こちら→「岸辺のアルバム オープニング」



  「岸辺のアルバム」というドラマは見ていません。
  ドラマの名だけは知っています。
  たぶん、
  両親が見たくなかったのだろうと思います。

  しかし、
  あの多摩川氾濫のニュースを食入る様に見ていた父と母の形相。
  忘れる事はできません。
  心のうちはわからないと申し上げておきます。

  ただ、他所さまの不幸をどう感じていたのか予測は付きますが
  二人とも言葉は何も発せず
  多摩川に家が一軒また一軒と 飲み込まれていく様子を見つめていました。

  人が生きていくという事は なんて残酷なんだろうと思います。
  幸せなだけで 生きていくことなんか出来ないのですね。

  今朝、芥川龍之介の「歯車」を読み終えたところなので
  少し厭世的な気分でおります。

  だらだらと書きました。
  オバサンの繰言です。

                           写真の無いのもナンだから
                            https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/e/eikoobasan/20190820/20190820210527.jpg
                                   スパゲッティーを食べるモモです。